【『ねじ式』『無能の人』ガロを代表する漫画家 つげ義春さん】

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こんにちは!
デザインこねこの長嶺きわです。

先日、仙石原にある、国産小麦と自家製酵母を使ったパン屋さん「ちだパン」さんへ行ってきました。
https://www.instagram.com/chidapan.hakone/

店主のちださんは、私の高校の時の同級生です。昨年1月にお店をオープンし、ずっと行けていなかったので嬉しかったです。お店はイートインができ、心地よい空間でした!チリコンカンチーズベーグル、ブルーベリーレモンベーグル、カルダモンロール、自家製酵母バケットを購入しました。とても美味しかったです。

ちだパン
営業日  水曜日、日曜日
営業時間 11:00-16:00 ※完売次第閉店。
駐車場   2台分
住所   足柄下郡箱根町仙石原1246-369

制作事例のご紹介

今回は、小田原城 本丸茶屋様「店内メニュー」と「メニュー看板」をご紹介しました。

制作内容:A4サイズ差し込みメニュー、店頭用メニュー看板

こちらからご紹介ページをご覧ください

本丸茶屋様は、2021年にリニューアルした際に、ブランディングデザインを弊社で行いました。ブランディング時に決めたトーン&マナーに合わせ、店内のメニューブックのデザインと、店頭に置く大きなメニュー看板のデザインをしました。

ぜひご覧ください。

【一週間のAI / ITニュース】

5/29〜6/4までのAI / IT関連ニュースを一部、お知らせします。

6月4日

世界半導体市場統計(WSTS)は、2024年の半導体市場が前年比16%増の6112億ドル(約95兆円)になるとの見通しを発表しました。生成AIへの投資が活発で、演算に使うロジック半導体や記憶用メモリーの需要が伸びるそうです。24年の日本市場(円ベース)は前年比5%増の約6兆8670億円を見込むそうです。政府の補助金によって半導体投資が活発となり、25年は9%増の約7兆5088億円となる見通しです。

『ねじ式』『無能の人』
ガロを代表する漫画家つげ義春さん

今回は、前回のコズフィッシュ祖父江慎さんからの本繋がりで、劇画作家の先駆者、漫画家のつげ義春さんをご紹介します。

子どもの頃

つげさんは、東京葛飾で、1937年に伊豆大島の旅館の板前だった柘植一郎と、旅館の女中であった妻ますの間に次男として生まれました。現在86歳です。

父は、つげさんが5歳の時に出稼ぎの旅館でアジソン病にかかり亡くなり、母は軍需工場で働いて、子ども達を養いました。

8歳の時に東京大空襲を体験し、新潟県へ学童疎開ののち終戦後東京へ戻りますが、生活が苦しく、兄弟とともに立石駅前の闇市でアイスキャンディを売ったり、芝居小屋の雑用をしたりで、1年間学校に行かなかったそうです。

9歳の時に、母親が再婚。母親は闇市で居酒屋を経営するのですが、半年で廃業します。妹も生まれ、生活はますます苦しくなります。

漫画家を目指す

17歳の頃、赤面症がひどく、人に会うのが苦痛になり、漫画家を目指します。豊島区のトキワ荘に住んでいた手塚治虫を訪ね、原稿料の額などを聞き出し、プロになる決意を強めます。

その後、メッキ工場で働きながら漫画を描き、雑誌『痛快ブック』(芳文社)の「犯人は誰だ!!」「きそうてんがい」で漫画家デビューを果たします。18歳で、貸本マンガ『白面夜叉』で若木書房から単行本デビュー。


小学校卒業後、中学校へは進学せず、兄の勤め先のメッキ工場に見習い工として就職しますが、残業、徹夜、給与遅配が続いたそうです。
その後、養父の始めた縫製業を手伝います。養父からの冷たい仕打ちに耐えられず、密航を企て、警察に連行されることも複数回ありました。このころの生活も漫画で描かれています。

原稿料は1冊分128ページ買い取りで3万円だったそうです。つげ家は小切手を見たこともなければ、銀行にも縁がなかったためちょっとした大騒ぎとなりました。

その頃、トキワ荘を中心として新漫画党という新人漫画家たちの集まりがあり、つげさんも度々参加をするのですが、人見知りが激しく、トキワ荘の漫画家とはそれほど親交を深めなかったそうです。ただ、トキワ荘へ引っ越す前の赤塚不二夫さんとだけは親交を持ち、赤塚さんの『おそ松くん』よりずっと前の作品『よしはる君』にも、つげさんが登場しているそうです。

貸本漫画時代

暗いタッチが主流だったつげさんの漫画は、小学生から不評を買い、出版社からはもっと明るい作風を要求されたそうです。

そして制作に行き詰ってしまい、クラシック音楽とコーヒーに傾倒し喫茶店に通い、生活に困窮すると血液銀行で売血をしてしのいでいたそうです。その後、1958年から若木書房の雑誌『迷路』でほぼ毎月短編を発表しますが、『迷路』は1959年12月の第14号で終了となります。

貸本マンガ出版社、三洋社にて白土三平さんの『忍者武芸帖』がヒット。三洋社に依頼され、白土さんの画風を真似し「武蔵秘話」シリーズ6作を描きます。その際、白土三平さんと初めて出会いました。

『月刊漫画ガロ』デビュー

その後、白土さんの新作のための雑誌として、1964年青林堂より『月刊漫画ガロ』が創刊されました。創立者の白土さんは『迷路』時代から高くつげさんを評価していて、ガロに誘います。『噂の武士』で1965年8月号の『ガロ』に初登場。

原稿料がひと月後になり、生活に困るため、しばらくの間、青林堂にかわって白土さんが原稿料を立て替えていたそうです。そして、つげさんが、1966年29歳の時に、作家性の強い短編『沼』『チーコ』を立て続けに発表。

『沼』はこれまでつげさんの中にあった「漫画はこうあるべき」という常識を自ら解放した作品で、漫画でしか表現ができない曖昧性を切り開いた記念碑的な作品となりました。

『沼』からは1968年8月号の『もっきり屋の少女』までは全てが正真正銘の傑作であり凡作が一つもない「奇跡の2年間」と言われているそうです。

この2作品により、これまでの娯楽本位の漫画作りから解放され、文学青年などから注目され始めるのですが、当時、白土さんの『カムイ伝』目当てでガロを買っていた読者層には「暗い」という理由で評価されませんでした。

理解されなかったことにショックを受け、自作を制作する意欲が失せてしまい、『ゲゲゲの鬼太郎』などで知られる、水木しげるさんのアシスタントになりました。水木さんの仕事をしながら生活が安定していき、旅行にも行くようになります。この頃の旅の印象は、一連の「旅もの」作品として結実することになりました。

『ねじ式』発表から休業へ

1968年6月の『月刊漫画ガロ』6月増刊号 別冊『つげ義春特集号』にて『ねじ式』を発表します。この時代は全共闘の前夜と呼ばれる時で、大学生や社会人も漫画を読むようになったため、『ねじ式』は、漫画が初めて「表現の領域を超越した作品」として絶賛され社会現象となり、後続の作家たちにも絶大な影響を与えることになりました。

1975年に劇団、状況劇場の女優だった藤原マキと結婚。藤原さんは、つげさんを芸術家と勘違いして、ともにアングラ芸術運動をしてくれると思っていたそうですが、つげさんは生活優先なので、あてが外れたそうです。

つげさんは「適当に食えるだけ取ればやめてしまう」という、創作よりも生活に重きを置くタイプの人なので、漫画の文庫ブームが起き、著作が予期せぬ売り上げとなり、貧困から遠のくと、ますます創作から遠ざかります。同時に『ねじ式』によって、つげさんは、芸術漫画家という烙印を押され、だんだん描きたいものが描けないというジレンマに陥るようになったそうです。

そんな中、奥さんがガンに罹り、大きな衝撃をうけ、心身ともに不調になってしまい、ノイローゼになります。漫画を描くことに苦痛に感じ、他に職をもとめ、1981年に古物商免許を取得し、「ピント商会」を設立し、古本やカメラを修理して販売を始めます。
カメラは思わぬ収入になったそうです。ポイントは他よりも安く売ることで、それは、小学生の時の闇市でアイスキャンディーを売っていた時の経験が役にたっていたそうです。1年ほどで中古のカメラが手に入らなくなり、カメラ販売は断念し、『無能の人』(1991年映画化)に描かれた「売石業」も、実際に試してみたが、うまくいきませんでした。

1981年2年ぶりの新作『散歩の日々』を受け取った編集者はつげ作品の発表の場としてふさわしい季刊漫画雑誌「COMICばく」を創刊したことで、つげさんは毎号漫画を描くようになりましたが「マイナー意識の強い自分」の作品が主体となったことに困惑したそうです。

このような、「駄目人間」としての体験を描いた『無能の人』を刊行しました。

つげさんの独特の暗さやユーモアさが人気を博しますが、不安神経症のため、つげさんの体調はどんどん悪くなってしまい、1987年、「COMICばく」13,14号掲載の「別離」以来、新作は発表していません。

2020年、欧州最大の漫画の祭典である第47回アングレーム国際漫画祭で特別栄誉賞を受賞。「漫画界のゴダール」と紹介されました。

いかがでしたでしょうか?

つげ義春さんは50歳以降は作品を発表していませんが、作品は、映画化や海外での発刊などされていて、世界中で愛されています

その作品は、自伝的作品が多く、純文学のような、自分とは?ということを見つめているような内容で、つげさんも好きだった、太宰治のような、自分を客観視するために描いているような作品だと思いました。

3日に1通はファンレターの返信をしていたというエピソードも初めて知り、新鮮でした。

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長嶺 喜和|Nagamine Kiwa  facebook

デザインこねこ株式会社 代表取締役社長/クリエイティブディレクター/イラストレーター/デザイナー

1979年神奈川県小田原市生まれ。多摩美術大学情報デザイン学科(一期生)にて、インスタレーションアートを学ぶ。在学中よりウェディングアルバム制作会社の仕事の受託をはじめる。もっと様々なデザインをお客様と直接やりとりをしながらつくりたいという思いから2009年に「デザインこねこ」を創業。小田原地下街「ハルネ小田原」開業プロモーション受注を期に2016年に法人化。その後も、小田原城のリニューアル「小田原城 平成の大改修」のPR全般などをはじめ、小田原市の自治会情報誌「小田原回覧板系フリーマガジン おとなりさん」の発行(自社事業、季刊7万部発行 *現在休刊中)など、小田原市を中心とした西湘エリアにて「地域密着のデザイン会社」として展開を続ける。画家である母の影響で幼少より絵に親しみ、現在は母の主宰するアトリエ・コネコで子どもたちへ向け絵画の講師も行っている。