【日本ポップ・シーンを代表する存在横尾忠則さん(前編)】

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こんにちは!
デザインこねこの長嶺きわです。

先日、森美術館へ『シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝』を見に行ってきました。
シアスター・ゲイツ(1973年シカゴ生まれ)は、彫刻と陶芸作品を中心に、建築、音楽、パフォーマンス、ファッション、デザインなど、様々なメディアやジャンルを横断する活動で国際的に高く評価されているアーティストです。2004年に愛知県常滑市に陶芸を学ぶために来日し、日本の「民藝運動」の哲学と「ブラックイズビューティフル」を融合させて、独自の美学を表す「アフロ民藝」という言葉を生み出したそうです。やっていることが広域で、展示しているものもいろいろあり、とても刺激になりました。展示は9/1までやっているそうです。

制作事例のご紹介

今回は、コラム建設様の冊子『STYLE』をご紹介しました。

制作内容:A5サイズ 16ページ冊子

こちらからご紹介ページをご覧ください

秦野市にある建設会社、株式会社コラム建設様が手がける建築ブランド「STYLE BASE」の事例紹介冊「STYLE」を制作いたしました。

Vol.2となる今回は、株式会社子の日様の新工場です。子の日様は、世界中のトップシェフを顧客に持つ、プロフェッショナル向け包丁メーカーです。取材、デザイン、コピー、全てを弊社で行いました。

ぜひご覧ください!

【一週間のAI / ITニュース】

7/10〜7/16までのAI / IT関連ニュースを一部、お知らせします。

7月12日
岸田首相はドイツを訪問し、ショルツ首相と会談し、デジタル化やグリーン化に不可欠な重要鉱物資源の輸出規制などを通じて「経済的な威圧」を強める中国を念頭において、両国の経済安全保障分野での連携強化をはかる協議の枠組みを新設することで合意しました。

日本ポップ・シーンを代表する存在 横尾忠則さん【前編】

今回は、世界的に成功を収めた日本を代表するアーティストの一人、横尾忠則さん【前編】をご紹介します。
横尾さんは、日本を代表する美術家でありデザイナーでありイラストレーターです。ニューヨーク近代美術館、アムステルダムのステデリック美術館、パリのカルティエ現代美術財団など、各地で個展を開催しています。2012年には神戸に横尾忠則現代美術館を開館しました。また、ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレ展の金賞や紫綬褒章、日本文化デザイン賞、旭日小綬章、朝日賞、高松宮殿下記念世界文化賞など数多くの賞を受賞しています。

生い立ちから新聞社への就職

横尾さんは、1936年兵庫県多可郡西脇町(現:西脇市)生まれの88歳です。
未熟児で生まれた横尾さんは、3歳の頃に呉服の行商を営む伯父夫婦の養子になりました。暮らしは決して楽ではなかったのですが、自然豊かな環境で、信仰深い養父母に可愛がられていたそうです。

当時養父母は50代だったため、横尾さんが高校生になる頃には、もう高齢になっていて、ほとんど無職だったため経済的な余裕が全然なかったそうです。

9歳の時、神戸大空襲がありましたが、住んでいた西脇は空襲を免れたそうです。

中学3年生の時、高校へ行くのも金銭的に大変だということもあり、商社へ面接に行きましたが、中学校の先生に高校へ進学することを強く勧められ、高校へ進学します。その間、絵はずっと好きだったので、様々な団体や会社のマーク募集や新聞社のカット募集に応募し、入選して賞金をもらったりしていたそうです。

当時、画家や役者は「社会の脱落者の職業」と言われていて、横尾さんも高校卒業後は郵便局員になり、日曜画家として絵を描いていられたらと思っていたそうです。そんな中、高校3年生の時、校長先生と美術の先生が「地方にくすぶっているよりも、東京の美術大学で絵を勉強しなさい。先生が応援するから」と言ってくれました。大学に行く経済力はなかったのですが、成り行きで受験勉強をすることになりました。横尾さんは美術大学に行きたいとは特に思っていなかったのですが、周りが盛り上げてくれて、10日ほど東京の絵の先生のところで下宿し、絵の勉強をしたそうです。

受験の前日に、絵の先生に「明日が受験だけれども、受験せずに郷里に帰りなさい」と言われ、受験をせず故郷に帰ったそうです。絵の先生は、横尾さんの家庭の事情を考えると、学費も払えず現実的に不可能だと判断したのだそうです。

故郷に帰りしばらくすると、印刷会社に勤める話が舞い込み、就職しました。就職後も、兵庫県の県民紙である神戸新聞などにイラストカットを描いて投稿し、よく入選していたそうです。
ある時、横尾さんのような投稿少年が5人ほど集まり、神戸で展覧会をしないかと声をかけられました。
神戸の喫茶店の2階で展覧会を開催した際、たまたまお茶を飲みに来ていた神戸新聞のデザイン課長とイラストレーターの灘本唯人さんが「この子面白いから神戸新聞に入れたら」と推薦してくれ、その場で神戸新聞に就職が決まったそうです。1956年のことでした。

兵庫での神戸新聞の存在は非常に大きく、普通なら高卒では入れない会社に突然入ることができたのは夢のような出来事だったそうです。1957年には、谷泰江さんと結婚しました。

日本デザインセンターへの参加

横尾さんは3年間神戸新聞に勤めた後、大阪のナショナル宣伝研究所に1年務めました。きっかけは、1958年、22歳の時に「第8回日宣美展」で奨励賞を受賞し、横尾さんの作品を見た人が大阪のナショナル宣伝研究所の所長に紹介したことです。所長から「明日から来てください」と言われ、その翌年、事務所が東京の六本木に移ることになり、それに伴って上京しました。

東京に来てすぐ、関西で会ったことのあるデザイナー田中一光さんのところに挨拶に行きました。田中さんから「今度、日本の優秀なデザイナーが集結した『日本デザインセンター』という会社ができる」と聞き、意思表示のつもりで翌月ナショナル宣伝研究所を退職しました。驚いた田中さんは先輩デザイナーの亀倉雄策さんらを説得し、何とか1960年に日本デザインセンターに入社しました。

1961年には、田中さんの紹介で京都勤労者音楽協議会のポスターを制作しました。翌年1962年、大和証券のDMのイラストでADC(東京アートディレクターズクラブ)賞銀賞を受賞します。その後、東京オリンピックのピクトグラムにも関わりました。
次第に横尾さんのイラストやデザインが業界のなかで認められるようになったことと、そうそうたるメンバーが集いしのぎを削る環境は自分の性格に合わず、精神的な負担が大きかったため、日本デザインセンターを4年で退職し、1964年に独立しました。

三島由紀夫との出会い

この頃、横尾さんは現代アーティストグループのハイレッドセンター(高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之)による《シェルター計画》(1964年)にオノ・ヨーコやナムジュン・パイクらとともに参加しました。

また、「天井桟敷」の寺山修司や写真家の細江英公、「状況劇場」を主宰する唐十郎、澁澤龍彦、音楽家の一柳慧ら、時代を牽引する多彩な人物と出会い、親交を深めました。様々な出会いの裏で、1960年には養父を、1965年には養母を相次いで亡くしています。

1965年、初個展を開いた際、三島由紀夫さんと出会いました。横尾さんの作品を高く評価した三島さんは、すぐに自身の雑誌連載の挿絵に起用しました。また、自身が演出を務める新作歌舞伎のポスターデザインや、自身をモデルに写真家細江英公さんが撮影した写真集『新輯薔薇刑』の装丁とレイアウトを横尾さんに任せました。

足の病で入院中にもかかわらず横尾さんが何とか完成させた後者のカバーデザインを、三島さんは「俺の涅槃像だ」と評価しました。そのわずか数日後に三島さんは割腹自殺しました。

最後の電話では、三島さんは「インドは死を学ぶところではなく、生を学ぶところ。君もそろそろインドに行く時期が来た。もっと強くなりなさい」と言われたそうです。

いかがでしたでしょうか?
今回は、横尾忠則さん【前編】をご紹介しました。
次回は、【後編】として、グラフィックデザイナーから、画家宣言、画家としての活動をご紹介いたします。

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長嶺 喜和|Nagamine Kiwa  facebook

デザインこねこ株式会社 代表取締役社長/クリエイティブディレクター/イラストレーター/デザイナー

1979年神奈川県小田原市生まれ。多摩美術大学情報デザイン学科(一期生)にて、インスタレーションアートを学ぶ。在学中よりウェディングアルバム制作会社の仕事の受託をはじめる。もっと様々なデザインをお客様と直接やりとりをしながらつくりたいという思いから2009年に「デザインこねこ」を創業。小田原地下街「ハルネ小田原」開業プロモーション受注を期に2016年に法人化。その後も、小田原城のリニューアル「小田原城 平成の大改修」のPR全般などをはじめ、小田原市の自治会情報誌「小田原回覧板系フリーマガジン おとなりさん」の発行(自社事業、季刊7万部発行 *現在休刊中)など、小田原市を中心とした西湘エリアにて「地域密着のデザイン会社」として展開を続ける。画家である母の影響で幼少より絵に親しみ、現在は母の主宰するアトリエ・コネコで子どもたちへ向け絵画の講師も行っている。