【戦後から現在まで 日本デザイン界の重鎮 永井一正さん】

メールマガジン/バックナンバー

こんにちは!
デザインこねこの長嶺きわです。

少し前(6月2日)のことですが、たまたま通りかかり、小田原骨董市@お城通りをふらっと見てきました。骨董市といえば小田原城の広場で行われているイメージですが、駅前は人も多く、賑わっている雰囲気が観光地的でいいなと思いました!母と一緒にいたのですが、母が木製の糸巻きの道具を発見。植物の鉢を置くのにちょうどいい、ということで、私にも買ってくれました。多肉植物の鉢を置いてみると、いい雰囲気になりました!

制作事例のご紹介

今回は市兵衛葬具店様の、チラシをご紹介しました。

制作内容:A4サイズチラシ

こちらからご紹介ページをご覧ください

松田町に本社がある葬儀店、市兵衛葬具店様ポスティング用チラシを作成しています。

同業他社との差別化を図るために、表面に金額を掲載せず、オリジナル漫画を掲載しています。このチラシは第5弾となり、漫画の連載も5回目を迎えました。お客様からの問い合わせもあり、効果が確認されています!定期的にポスティングを行っているため、今後も効果が期待できそうです。

ぜひご覧ください!

【一週間のAI / ITニュース】

6/12〜6/18までのAI / IT関連ニュースを一部、お知らせします。

6月14日

フランシスコ教皇がイタリアで行われているG7サミットに参加しました。
ローマ教皇がG7サミットに参加するのは初めてのことです。AIに関する演説では、「新たな社会システムの創造につながる真の産業革命だ」とAIの可能性を認めた上で、「先進国と途上国、支配する側と抑圧される側の間でさらに不公平を生む可能性がある」と懸念を示しました。その上で、「AIの活用が正しく、豊かなものになるためには政治がその条件を作る必要がある」と首脳らに訴えました。

戦後から現在まで デザイン界の重鎮 永井一正さん

本日は、戦後のデザイン創成期から半世紀以上にわたり、最前線で活躍し続けている日本デザイン界の重鎮、永井一正さんをご紹介します。

幼少期と過酷な経験

永井一正さんは1929年に大阪で生まれました。旧制中学校を卒業後、17歳の時に父親は、勤め先のダイワボウ(大和紡績)から、満州繊維公社の理事ということで、満州に行っていたそうです。終戦後は父親と連絡が途絶えてしまいました。永井さんは、「家族を支えなければ」との思いで、北海道の山奥を開拓することに決め、父親の知人の鉄道会社に勤めている方を頼りに、満員電車に10日間も揺られて向かったそうです。そこで知り合った人と、さらに山奥に入り、丸太小屋で生活をしながら、馬で開墾をしていったそうです。永井さんは、体が弱かったので、馬に蹴られたり、大変だったそうです。

ある日、道に迷ってしまい、真夜中に月も出てもない真っ暗な中、獣の咆哮を聞きました。一晩中彷徨って、命がなくなるかもと思った中、ようやく人家にたどり着きました。そのことを横尾忠則さんは、「永井一正のデザインの原点はそこにある」と本に書いてくれたそうです。

デザイン活動の始まり

その後、父親が帰還し、永井さんも家に戻ります。現在でいう、高校の3年生に編入学し、そこから東京藝術大学彫刻科に入学しました。2年生の時に戦時中の栄養失調などが原因で、眼底出血という病気を患ってしまい、医者に失明しますと言われ、大学を休学し、大阪に帰ることになりました。
父親が勤めている、ダイワボウ(大和紡績)から、「藝大に通っていた永井の息子が帰ってきているらしく、病気で寝込んでいるわけでもないから、やらしたらどうだ」と呼ばれて、デザインの仕事を始めることになりました。デザインの正規の勉強はしていませんでしたが、自分の感覚を信じ、独自のスタイルを築いていきます。

永井さんの作品は、1937年創設の広告誌『プレスアルト』に掲載され、デザイナー仲間と切磋琢磨するようになります。

『プレスアルト』は広告印刷物やパッケージ、包装紙などの「実物」を、その批評を掲載した冊子とともに綴じた広告誌で、特によく掲載されていた、田中一光さんとは意気投合し、キムラカメラの木村恒久さん、後にハーバード大学教授となる片山利弘さんと共に「Aクラブ」を結成しました。

毎晩のように、議論しあい、作品ができるとボロクソに言い合うようなことをしていて、大阪の早川良雄さんや、山城隆一さん、東京から山名文夫さん、河野鷹思さん、亀倉雄策さんなどが、大阪にいらしたときにはAクラブで話を聞くとか、そういうようなことで色々と吸収をしていったそうです。

1972年の札幌冬季オリンピックロゴ

その後1953年24歳の時に、グラフィックデザイナーの登竜門だった、日本宣伝美術会の会員になり、60年に日本デザインセンターの創立に参加しました。

60年代から70年代にかけては、日本は、東京オリンピックや大阪で開催された日本万国博覧会など、大規模なイベントが立て続けに開催された勢いがある時期でした。グラフィックデザイナーたちはポスターやマークのコンペを競い、新しいデザインを目指して創造していったそうです。
1972年の札幌冬季オリンピックのマークは、日の丸、雪の結晶、五輪のマークを縦横に自由に組み合わせて使用できるユニット形式という、新しい感覚を取り入れた永井さんのデザインが採用されました。

その後、「アサヒビール」など、企業のシンボルマークを手がける一方、ポスター制作をしていきます。

次回も引き続き、永井一正さんをご紹介していきます!
後半へ続く

いかがでしたでしょうか?
亀倉さんに続き、戦後からのデザインの中心にいた、永井一正さんをご紹介しました。

亀倉さんとは14年の年の差があるのですね。次回も、永井さんのアーティスティックなポスターのことなど、ご紹介していきたいと思います。

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長嶺 喜和|Nagamine Kiwa  facebook

デザインこねこ株式会社 代表取締役社長/クリエイティブディレクター/イラストレーター/デザイナー

1979年神奈川県小田原市生まれ。多摩美術大学情報デザイン学科(一期生)にて、インスタレーションアートを学ぶ。在学中よりウェディングアルバム制作会社の仕事の受託をはじめる。もっと様々なデザインをお客様と直接やりとりをしながらつくりたいという思いから2009年に「デザインこねこ」を創業。小田原地下街「ハルネ小田原」開業プロモーション受注を期に2016年に法人化。その後も、小田原城のリニューアル「小田原城 平成の大改修」のPR全般などをはじめ、小田原市の自治会情報誌「小田原回覧板系フリーマガジン おとなりさん」の発行(自社事業、季刊7万部発行 *現在休刊中)など、小田原市を中心とした西湘エリアにて「地域密着のデザイン会社」として展開を続ける。画家である母の影響で幼少より絵に親しみ、現在は母の主宰するアトリエ・コネコで子どもたちへ向け絵画の講師も行っている。