【シンプルさと機能性 東京五輪1964ロゴ 亀倉雄策さん】

メールマガジン/バックナンバー

こんにちは!
デザインこねこの長嶺きわです。

最近、市民農園に持っていく苗を事前にベランダで育てています。ベビーリーフをサラダにしたり、お味噌汁に入れたりなど、重宝しています。二十日大根はベランダでも十分に育ったので収穫しました!採ってすぐにサラダで食べましたが、瑞々しくて美味しかったです!

制作事例のご紹介

今回は、izumiジュエリーシマノ様「36th アニバーサリーフェアのDM」をご紹介しました。

制作内容:ハガキサイズDM

こちらからご紹介ページをご覧ください

izumiジュエリーシマノ様のDMの写真は、毎回オーナーのizumi様が撮影したジュエリーの写真を使用してデザインをさせていただいております。
弊社創業時から約15年間デザインを担当させていただいており、その間、何度かお店のお客様の反応に合わせて、デザインをマイナーチェンジしてきました。現在のコンセプトは、メインのお写真をできる限り際立たせることです。そのため、抑えたデザインながらも大切な情報はきちんと伝わるようにデザインする事を心がけています。毎回届く素敵なお写真を楽しみに、お店に合ったエレガントな仕上がりになるデザインを目指しております。ぜひご覧ください!

【一週間のAI / ITニュース】

6/5〜6/11までのAI / IT関連ニュースを一部、お知らせします。

6月10日

アップルは、iPhoneなどのOSに生成AIのシステム「アップルインテリジェンス」を導入すると発表しました。AIが複数のアプリと連携し、メールの内容を要約して重要な順番に表示するほか、返信の文案を作成したり、保存された家族や友人の写真から画像や絵文字を生成したりするとしています。また、AIを搭載した音声アシスタント機能「Siri」を向上させ、より自然な会話を可能にし、さまざまな計画なども作成できるようにするとしています。

シンプルさと機能性 東京五輪1964ロゴ 亀倉雄策さん

亀倉雄策さんは、1915年に新潟県の大地主の家に生まれました。

9歳の時に父が事業で失敗をし、土地を売り東京の武蔵境に引っ越しました。関東大震災のよく年のことだったそうです。近所には、イタリア文学者の三浦逸雄さんが住んでいて、映画鑑賞を勧めてくれたそうです。

ある日、小津安二郎監督の映画『お嬢さん』(1930年12月公開)を見に行った時に飾ってあったポスターに目が奪われます。誰が作ったものだろうと調べると、図案家の河野鷹思さんという人でした。当時、デザインは図案と呼ばれていて、グラフィックデザイナーも図案家と言われていたそうです。
それから様々なポスターの作品集などを勉強し、フランスのグラフィックデザイナー、カッサンドル(イブサンローランのロゴのデザイナー)のポスターに衝撃を受け、グラフィックデザイナーを志します。

プロパガンダ誌の制作の時代

新聞の求人欄に掲載されていた「少年図案家募集」の文字を見て、共同広告事務所へ入社し、初めて本(サン・テグジュペリの小説『夜間飛行』)の装丁デザインを手がけました。

その後、23歳の時に写真家の名取洋之助さんが設立した、日本工房に入社します。日本工房では内閣情報局からの仕事で、対外プロパガンダのためのグラフ誌『NIPPON』の編集・制作を手がけていて、亀倉さんは図案家としてデザイン・装丁の中心にいました。

そんな時、亀倉さんに召集令状が届きましたが、入隊から2週間後「重要用務者として召集解除する」という通知がきて、玉音放送は武蔵境の自宅で聴いたそうです。

1946年、亀倉さんはプロパガンダ誌を作っていたのでGHQから尋問を受け、公職追放となりました。亀倉さんは戦前の仲間を探し、約50人のデザイナー仲間とともに、日本宣伝美術会(日宣美)という職能団体を立ち上げました。
メンバーには、原弘さん、山名文夫さん、新井静一郎さん、河野鷹思さんなどがいて「二度と『戦争の広告』を作らない」と誓いました。

1964年東京オリンピックのシンボル・マーク

1959年12月に亀倉さんをはじめ、原弘さん、田中一光さん、山城隆一さんが中心となり、日本デザインセンターを設立しました。トヨタ自動車、アサヒビール、旭化成、東芝、野村証券など8社の出資により「新しいデザインの時代において、各社の宣伝部を共同で持つ」という趣旨の元、設立されました。

その数ヶ月後、1964年東京オリンピックのシンボル・マークのコンペ参加の声が亀倉さんにかかりました。指命されたデザイナーは、亀倉雄策さんの他に、稲垣行一郎さん、河野鷹思さん、永井一正さん、杉浦康平さん、田中一光さんの6人でした。

オリンピックの組織委員会が「デザイン懇談会」を立ち上げ、指名コンペを行うことになったそうです。委員会の座長には東京大学卒業の美術評論家でフランス文学者の勝見勝さんが就き、組織委員会会長は国会議員の津島壽一さん副会長は旧皇族の竹田恒徳さんが参加しました。

コンペ当日は、1人ずつデザインを提案していったそうです。最初の稲垣さんが説明を終えるころ、亀倉さんが遅れて会場に入ってきたそうです。

2番目が杉浦さん、そして河野さん、田中さん、永井さんの順でデザイン案が発表されていきましたが、そこまで、座長の勝見さんは何も言葉を発しなかったそうです。

いよいよ亀倉さんの番になり、まずは陸上競技トラックをモチーフにした第1案を見せると、誰からも良い反応はなかったそうです。そこで亀倉さんは、筒から第2案を出しました。それは、赤い丸と金の五輪マークと文字で構成した、例のデザインでした。

朝日新聞美術記者の小川正隆さんが「決まったな」とつぶやき、勝見さんが大きくうなずきました。反対意見はなかったそうです。亀倉さんのデザインが満場一致で決まりました。

いかがでしたでしょうか?

今回は、有名な1964年東京オリンピックのシンボル・マークをデザインした、亀倉雄策さんをご紹介しました。

戦後、日本宣伝美術会を立ち上げ「二度と『戦争の広告』を作らない」と誓ったというお話は、戦時中のプロパガンダは、デザイナーにとってどのような、理不尽なものだったのだろうと、考えさせられました。

現代でも問題になっているSNS広告しかり、人をコントロールするための広告やデザインはあってはいけないと改めて思いました。

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長嶺 喜和|Nagamine Kiwa  facebook

デザインこねこ株式会社 代表取締役社長/クリエイティブディレクター/イラストレーター/デザイナー

1979年神奈川県小田原市生まれ。多摩美術大学情報デザイン学科(一期生)にて、インスタレーションアートを学ぶ。在学中よりウェディングアルバム制作会社の仕事の受託をはじめる。もっと様々なデザインをお客様と直接やりとりをしながらつくりたいという思いから2009年に「デザインこねこ」を創業。小田原地下街「ハルネ小田原」開業プロモーション受注を期に2016年に法人化。その後も、小田原城のリニューアル「小田原城 平成の大改修」のPR全般などをはじめ、小田原市の自治会情報誌「小田原回覧板系フリーマガジン おとなりさん」の発行(自社事業、季刊7万部発行 *現在休刊中)など、小田原市を中心とした西湘エリアにて「地域密着のデザイン会社」として展開を続ける。画家である母の影響で幼少より絵に親しみ、現在は母の主宰するアトリエ・コネコで子どもたちへ向け絵画の講師も行っている。